内山章子

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内山 章子(うちやま あやこ、1928年 - )、旧姓:鶴見 章子(つるみ あやこ)は、日本の主婦。鶴見祐輔の子、鶴見和子鶴見俊輔の妹にあたる。戦争や家族の介助・看護・家事のため、満足に勉強ができなかったとの思いから、夫・内山尚三が死去した後、2004年・76歳のときに京都造形芸術大学芸術学部通信教育部に入学し、2012年に卒業。その後も日本絵画史の勉強のため成城大学に聴講生に通うなど、高齢になってから復学したことで知られる。

経歴[編集]

1928年東京市麹町区元園町で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの3番目(次女)として生まれる[1]

幼少の頃、後藤新平邸内の「南荘」と呼ばれた建物の女中部屋で暮らしていた[2]

弟・直輔が生まれた頃から、母に付き添うことが多く、小学校を休みがちで、女学校に進学してからも学校に通えない日が多かった[3]

女学校の2年のとき、勤労報国隊女子挺身隊で仕事をしなければならなくなり、勉強ができなくなった[3]

1945年2月、女子学習院中等科4年生のとき、母が高血圧症(血栓)を患い、看病のため軽井沢の別荘で療養する母の世話をした。3月の空襲以降、父・祐輔の弟である鶴見良三・の一家も同じ家に疎開してきたため、その食事や炊事の世話もした。[4][5]

同年4月(?)、東京女子大学に入学[3]

1948年に同大学歴史科を卒業し、墨田区の保育園「興望館」に勤務[6][7]

  • 同年、学制が変わり、第1期の社会科の高等学校教員試験を受け、教員免許を取得したが、教師になる自信がなく、保育士になることを希望。父・祐輔に反対されたため、内緒で保育園に勤めた。しかし、6ヶ月ほど経った或る日、姉・和子が保育園に来て、辞職することになった。[3]

1950年4月、姉・鶴見和子の紹介で知り合った、法政大学助教授をしていた内山尚三と結婚[8]

1956年5月、母・愛子の死去を看取る[9]

1962年9月、姉・和子の米国留学に伴い、弟・俊輔と交代で父・祐輔の介助にあたる[10]

1973年11月、父・祐輔の死去を看取る[11]

2002年に夫・尚三が死去し、三回忌に追悼文集をまとめた後、2004年、76歳のときに京都造形芸術大学芸術学部通信教育部に入学[12][13]

2006年7月に死去した姉・和子を介護・看病[14][13]。死去後に『鶴見和子病床日誌』(内山 2008 )を自費出版した[13]

2012年3月、83歳で卒業。江戸時代中期の絵師・呉春の『白梅図屏風』を卒業論文のテーマにした。[13]

2013年当時、日本絵画史を学ぶため、成城大学に聴講生として通学[13]

著作物等[編集]

著書[編集]

  • 内山 (2018) 内山章子『看取りの人生 - 後藤新平の「自治三訣」を生きて』藤原書店、ISBN 978-4865781816
  • ― (2008) ――『鶴見和子病床日誌』鶴見太郞、2008年、JPNO 21695385

映像・音声資料[編集]

  • 内山 (2016) 内山章子(述)秋田宏(記)「いつまでも「学びの心」を」『明日への言葉』〈ラジオ深夜便〉NHK、2016年2月12日
  • ― (2014) ――(述)「鶴見俊輔と父母との相克」『NHK戦争証言アーカイブス』〈戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」第2回 ひとびとの哲学を見つめて ~ 鶴見俊輔と「思想の科学」~〉、2014年5月14日

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 黒川 2018 9,53,57
  2. 黒川 2018 58 - 内山 (2008 )からの引用。
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 内山 2016
  4. 黒川 2018 170-171 - 内山 (2018 )による。
  5. 軽井沢 2013
  6. 内山 2014
  7. 軽井沢新聞 (2013 )は、戦後、復学・就職を希望していたが、説得されて母の看病を継続した、としている。
  8. 黒川 2018 229-230 - 内山 (2008 )による。
  9. 黒川 2018 280-281
  10. 黒川 2018 345
  11. 黒川 2018 390
  12. NHK 2014
  13. 13.0 13.1 13.2 13.3 13.4 軽井沢新聞 2013
  14. 黒川 2018 476-477

参考文献[編集]